熱意

熱意がある、と言っていただいた。伝えてくださったのはいつも偉いなあと思っている人で、くすぐったく光栄にかつ申し訳なく感じた。
私は自分のことを熱量も熱意も意気込みも無きに等しいと評価している。

熱意とそれに伴う行動って、思い入れの発露という気がする。

これは私の人生の集大成です。何卒よろしく、という付箋の貼られた数百ページの原稿を見ている。やってもやっても終わらない。
編集の業務をしていると、そういう、著者の方のあふれ出る熱量を受け止めなければならないことがある。
過剰な熱量を何らかの手段でお寄せいただく場合、どうしてだか原稿はいまひとつだったりする。有り余るエネルギーを決まった様式や出版できる内容にどうやってあてはめていただくか、悩ましい。スマートできれいな原稿の方もたくさんいらっしゃるのに。
そんな過剰な熱量が、物理的にデスクに滞留している。

以前は私もそういうエネルギーをもっと周囲に向けていたと思う。
将来の展開や制度化に関する企画提案は、ちょっと離れているくらいがちょうどいい、思い入れを持つと死にたくなると気づいた。理想の展開と現実、プランB、C、D…を考えておいて、プレゼン中の感触次第でもう一押し、くらいがたぶんいい。だから実行したくなっちゃうような期待を持ちすぎないようにしている。あるべきだと考えているのは自分だけだし、回りはそんなの知るはずもなければ興味もないのだ。
その程度のスピード感で仕事しておけばいいのかもしれない、とすら、最近思い始めた。
怠けだ。

長時間職場にいることも、求められている/指示されている業務をまっとうすることも、それなりのアウトプットをすることも、別に熱意がなくてもできる。ただ、こなすだけでも。
そうでなくって、なにか気持ちをのせられたなら、いいのかな。
少しでもなにか、だれかが良くなるような仕事をしたいな。そのときに、気持ちをのせていられたらいいな。